2019年9月22日日曜日

田口さんの土下座について

ちょっと前に田口さんの土下座が少しばかり話題になった。
ブログなどでも記事化され、もっとも刺激的だったのはこれだろう。
agora-web.jp

記事的には「依存症は安易に嘘をつく」など依存症の核心をつくようなことを言っている。さすが、当事者。とも思ったのだが、何かしら違和感も感じていたことは事実だ。
なんというか結論への持っていきかたが、土下座そのものの価値みたいなものに縛られすぎていて、その本質や背景事情みたいなものを考慮していない印象を受けた。

この違和感は私だけでなく、マスコミの方々も感じていたようで、その後、もうちょっと背景まで踏み込んだ記事が出るようになった。

例えば、
jisin.jp
 
"逮捕時から『(大麻は)私1人のもの』と共同所持を否定するなど、小嶺さんは田口さんのことをかばい続けてきました。"
 んー、なんか古典的な感じの依存っぽさを感じる。

さらには
jisin.jp

"小嶺さんは今回の事件で『田口をそそのかした悪女』など世間から激しいバッシングを受けていました。ふだんは気丈な彼女ですが、勾留中も相当落ち込んでいたようです。そこでほぼ同時刻に釈放されると知った田口さんが、報道陣を引きつけることで彼女を人目につかないようにしていたのです。“土下座劇”の裏には、『僕が注意を引いてる間に裏から逃げて!』という彼なりの愛情があったのでしょう"

 ネット上でも指摘されているようだが、これは「共依存」というやつではないですか???
古典的には、この関係性は治療過程の上ではよくないこととされている。よくないこと=再使用に可能性が高い、という意味だ。

標準的な依存症治療で取られるアプローチは、このような場合、『分離』だ。
依存症治療には、仲間の支援が必要だとはよく言われるが、それは共依存状態にある片方のパートナーではなく、それ以外の元患者のような立場の人だ。
だから、治療という観点から考えると、この場合は、お二人の関係を把握したのち、それに適した環境を考慮する、というのが自然な考え方だと思う。それができるまでは(=十分な情報が得られるまでには)、違和感は違和感のままでいいのだと思う。でも、最初にあげた記事は、そこらへんをすっか飛ばして、土下座という行為を「これからの依存症治療にとって『あってはならないもの』とする」どこか教条的な信念に無理やり結びつけているように思う。
依存症に対するスティグマを排する、というスローガンはいいのだけれど、それにとらわれすぎて容易には把握することのできない現実を単純化して見るのは慎むべきではないかと自戒の念を持って思ったのだった。
(田中さんにはなんの恨みもありませんよ、念の為。以前は、私もこういうある種の短絡的なものの見方しかできなかったんではないだろうかと思い、その反省を込めてこのエントリを書いています)

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